五冊目『週末、森で(著・益田ミリ)』

シリーズ『青紗の本棚』は、作家/ライターの田中青紗(たなかあさ)が、自身の本棚から選んだ一冊をもとに広がる思考や体験を綴ったエッセイです。つい本棚に手を伸ばしたくなる不思議な体験をあなたに。
月2回更新予定。

「うわ〜行きたいけどごめんなさい。その日は予定があって無理なんです」

ちらりと声がする方を向くと、同じアルバイトスタッフのAちゃんが残念そうな顔をしている。お客さんとしてやって来た同じ大学の先輩から飲み会に誘われたらしい。

周りの雰囲気を明るくするAちゃんが来れないと知り、先輩は「そっか〜残念。でもしょうがないね」と言った。本当は来てほしいけれど、変えられない事実をゴクンと飲み込んでいるかのように思えた。

先輩が帰ったあと、他のスタッフがさらりと彼女に聞く。

「その日、なんか用事あるの?」

「どうしても読みたい本があるのと、あと溜まった家事を片付けたくて」

そう言ってにっこりと笑った彼女は「巡回へ行ってきます」とフロントを出た。スタッフは「へえ」と不思議そうに相槌を打ち、業務へと戻る。すぐそばで雑務をしていた私は、遠ざかっていく彼女の姿に憧れてしまった。

当時大学生の私は、手帳にぎっしりと予定を詰めるのが大好きだった。アルバイトは三つ掛け持ちし、勉強に、資格取得に、ボランティアに、友達との遊びにと毎日大忙し。予定が入っていること、誰かと会っていることが充実していると思っていて、そんな自分が好きだった。

なので「読みたい本がある」「家事がしたい」を理由に、誘いを断る彼女に驚いた。だって、

そんな理由で断っていいの?

誘いを断るとは、冠婚葬祭や他に誰かと会う予定や外出する予定が入っているとき、体調が悪いとき、テストの締め切りが近いときなど、“どうしようもできない”ものが理由になるんじゃないの?

読書はいつでもできるし、家事も隙間時間にやればいい。それらが“予定”になるなんてこれっぽっちも思っていなかったため、「そんな理由で断っていいんだ」と思わず彼女の横顔を見てしまった。

そして同時に、とても羨ましくなった。

やりたいことの順位がきっちりと付けられている。自分の軸が定まっている。この人はフラフラしていない。

私は予定を入れるのが好きで、手帳にはたくさん書き込みたい。「空いてる日いつ?」と友達と顔を突き合わせてワイワイ相談している時間が好きだった。しかし、そんな生活を四年間も送っていると次第に疲れてくる。「私の軸ってなんだっけ?」と感じる瞬間が訪れるようになった。

闇雲に予定を入れていたけれど、果たして本当に予定だったのだろうか。私が必要としている予定はもっと他にあったのではないだろうか。

読みたかった漫画を思い出す。そういえばランニングもしたい。ポツポツと浮かんでくる“やりたいこと”が私を取り囲んでいく。

せっちゃんが、こっそり右の耳に耳栓を入れているのは自分を守るため。

「自分を守る小さなヒミツがあっていいと思ったのです」という一文に、ふとAちゃんのことを思い出した。

今となっては「本が読みたくて」「家事がしたくて」と、自分のやりたいことを理由に予定を堂々と断れるようになったものの、きっと学生時代の私なら正直に言えなかっただろう。

あえて「既に予定が入っていて」と断っていたのは、彼女なりの自分を守るための小さな秘密だったのかもしれない。

心の平穏を保つため。自分を見失わないため。先輩との関係を保つため。

今彼女はどうしているのだろう。アルバイトを辞めてからは交流がなくなってしまったので、現在については分からない。ただ、彼女らしく毎日を歩んでいると信じたい。

自分を守る小さな秘密を大勢の人たちが持っていられますように、と願いながら。

この記事を書いたライター

田中 青紗

投稿者: 田中 青紗

エッセイと物語を書く人。ライター。 まだ夜が明けてほしくないと思う人が、布団の中で読みたくなる文章を書いています。 noteで作品公開中。 お茶の時間と朝ごはんが好き。